古民家がアトリエに⁉ やりたいことができる田舎暮らし
Co-あきない宣言 編集部 2022年4月26日
株式会社宝島社が発行する『田舎暮らしの本』で発表されている「住みたい田舎ベストランキング」の若者世代部門で3年連続全国1位を達成した西条市。移住者も年々右肩上がりで増えています。
今回インタビューしたのは、都内で東日本大震災を経験したことをきっかけに移住を考えるようになり、2020年に西条市に移住してきた近藤優依さん。
これまでの経験を活かして古民家を改修し、まるで映画の中に迷い込んだような素敵なお家で暮らす彼女に移住を決めたきっかけや、これからのことについて伺いました。
#1 絵がうまくなりたくて進んだ芸術の道
北海道札幌市で生まれた近藤優依さん。
「札幌は、半年くらい雪と共に暮らすんですよ。10月の終わりから降り始めて、3月いっぱいは雪が解けないので、幼少期はよく雪遊びをしていました。」
そんな近藤さんが雪遊びと同じくらい好きだったのが、絵を描いたり工作をしたりすることでした。
小学生の頃には“絵の勉強がしたい”と思うようになり、美術科のある中学校への進学を決断、本格的に絵の勉強を始めます。
中学、高校と絵を学んでいくにつれて、“もっとうまくなりたい”と思うようになった彼女は、東京の美術大学への進学を決意します。
特段、東京への憧れはなかったと言いますが、絵がうまくなりたいという想いから上京します。
「私の通っていた学校も短期大学はあったし、北海道にも教育大学の美術学部はあって、そっちに行く人もいたんですよ。でも、絵を描くならしっかり教わりたいっていう思いがあったので、東京の美術大学に行くことを決めました。」
#2 休む暇もなかった映画の世界
上京後も絵の勉強に励んでいた彼女でしたが、大学3年生の時に転機が訪れます。
「大学の求人で映画のセットをデザインしたりする美術監督の助手の募集があって応募したら『絵を描けるなら使ってあげても』という感じで採用してくれたんです。」
日本映画が好きで、映画の製作に携われるなら、という憧れの思いから参加した近藤さんでしたが、映画づくりの現場は想像を絶する過酷さだったと言います。
「最初の頃は誰よりも早く出勤して、夜中の2時くらいまで帰れないという日々でした。」
日常的に睡眠時間が3~4時間という生活が続きましたが、映画の撮影が始まると更に過酷さが増していきました。
「映画を普通にみてたら、なんでもないバス停のシーンでも、バス停の表札を作ったり、植え込みをつくったりとか、実はほとんどが「作りもの」なんです。スーパーマーケットのシーンでも、元々そこにあったモノを一度全部出して違う商品を詰めたりとか。」
朝早くからセットの準備を始めて、撮影が終わったら次の日のセットを組み、1~2時間しか寝れないという日が続いたと言います。
そんな厳しい仕事でしたが、完成した映画を観たとき、映画の最後に流れるエンドロールに自分の名前が流れてくるのを見ると、救われた気持ちになったそうです。
しかし、あまりの過酷さから心も身体も限界がきており、大学在学中から約4年間続けた映画の美術助手をやめる決断をします。
#3 3.11の震災を経験して
映画の美術助手をやめた後、進むべき道を見失った近藤さんは、たまたま持っていた教職免許を思い出し専修高等学校の美術教師として働き始めます。
ようやく「人間らしい」生活ができるかも、と考えていた彼女でしたが、学校の現場もなかなか過酷な環境だったと言います。
「私立の高校だったので、生徒に入学してもらうための営業みたいなことをしてました。また、親御さんに携帯の番号を公開していることもあり、休日とか関係なく電話がかかってきてました。」
美術を教えることよりもはるかに多い日常業務に本当にやりたかった事なのかと疑問に思いつつもなんとなく仕事を続けていたという近藤さんをある出来事が襲います。東日本大震災です。
あの地震が起こったとき、生徒を連れて学校から電車で1時間以上離れた姉妹校に行っていたという近藤さん。当時の様子をこう話します。
「全員帰れなくなってしまい、とりあえず先生たちで近くのスーパーに行って、菓子パンとか味噌汁を買ってきて、子どもたちをひと晩泊まらせました。中には迎えに来た親御さんたちもいましたが交通機関がマヒしてたので、普通なら車で1時間くらいのところ4,5時間かかったと言ってました。」
次の日の午後になっても電車も動かず、全生徒が帰ったのはその日の夕方で、近藤さんが自分の家に帰ったのは地震から2日後だったそうです。
「本棚も倒れて部屋の中がぐちゃぐちゃになっちゃって。古い団地だったので水道管が壊れてしばらく水も出なくなってしまいました。」
#4 田舎に来て感じたこと
震災の影響で学校が休校になったこともあり、旦那さんの実家がある愛媛県西条市に一時期避難してきていました。
愛媛に来た近藤さんは、まるで震災の影響など感じられずのんびりと、のどかな風景に大変心が癒されました。
「震災直後の東京は、スーパーから物がなくなったり、ガソリンスタンドに長時間並んだりとか、人が多いからこそモヤモヤするようなことがいっぱいあって、人が多いことは、怖いことだとはじめて思ったんです。」
そして東京から離れて暮らすことを意識するようになったそうです。
「東京が嫌いってわけじゃなかったんですけど、元々ここで一生暮らすっていう気持ちもあんまり無くて。それまでは、能天気に海外で暮らすみたいに思ってて、田舎暮らしも考えたことなかったんですけど、震災後は明確に地方に移住しようと思うようになりました。」
また、これ以上は中途半端な気持ちで教員やっていても「何かあった時に生徒を助けられない」と思った彼女は教師を辞め、大学時代の知り合いが始めていたお店でデザイナーとして働きはじめます。
#5 やりたいことを実現していく暮らし
移住にあたっていろいろな場所を検討していた近藤さん一家でしたが、ご主人の「地元に帰ろうかな」という言葉をきっかけに、愛媛県への移住を考えるようになります。
「それまでは、夫は地元には帰らないと言っていたので、全然縁もゆかりもないところを検討していました。前に夫の実家を訪れたときに、愛媛はすごく温暖な場所で、私はとても気に入っていたから、この時は『キター!』と思いました。」
そして、愛媛県の中でも最終的に選んだのがここ西条市でした。
「移住推進課の職員の皆さんのサポートの手厚さに感激したんです。問い合わせへの対応が早く、無料の移住体験ツアーがあるのも良かったです。そして、
なんと言っても空き家バンクで理想の家も見つけることができたのが大きかったです。」
移住後はやってみたいことがたくさんあったという近藤さん。
今、自宅にはとても暖かい薪ストーブがあり、薪割りも自分たちでしているそうです。
東京でしていたデザイナーの仕事をリモートワークでやりつつ、猟だったり畑をしたりと、自分がやりたいことができる今の環境はありがたいと言います。
#6 移住を検討する皆さんへ
現在、自身の移住体験を元に、西条市への移住検討者にアドバイスも行っている近藤さん。
移住先について深く悩む必要はないと言います。
「地方への移住も都内での引越しもあまり変わらないと思うんです。例えば、子どもの環境とか、心配なことはどこに行っても関係なく心配じゃないですか。結局、そこに住んでみないと分からないこともあるので、失敗したら移ればいいかというくらいの気持ちで良いんですよ。ダメだったら次考えようという気持ちで。いい環境に来ても合わない人がいるかもしれない、それはどこに引っ越しても同じだと思うんです。」
移住を考える上で心配なこと不安なことはたくさんあると思います。しかし、一生に一度の選択のように重く考えるのではなく、近藤さんのように少し気を楽にして考えてみてください。あなたの思い描く暮らしができる場所がきっと見つかりますよ。
■西条市移住サポートページ
https://www.lovesaijo.com/support/