「伝統校として。時代を越えた二人の共通点」 ~西条高校編~【後編】
LOVE SAIJO若者サポートデスク 2021年9月4日
#冬を越えて。待望の春のセンバツ甲子園
—— センバツでの目標を教えてください
宮竹 センバツに出場した4つ上の先輩はベスト8でしたので、先輩たちを超えて一日でも多く甲子園でプレイしようという思いでした。
宮﨑 夏の甲子園、国体は優勝経験のある西条高校でしたが、春のセンバツの優勝はまだない、という話を聞いていたので、やるからには優勝を目指してできるだけ上に。ただチームが集中していたのは目の前の試合に勝つということだけだったと思います。
—— 組み合わせはどうでしたか
宮竹 東海大会準優勝チームの県立岐阜商業(32校中で1回戦最後の試合)でした。当時は相手チームを分析するとか、データを収集するといったことはした記憶がないです。宿舎で相手チームのニュースが流れたときにかなり鋭いスイングしているなというイメージがあったので、一回戦から割とハードルが高いチームとの対戦になってしまったという感想でした。色々なところの練習場に移動したり、この年は雨が多かったのでコンディションを整えるのが大変でした。できたらもう少し早めの2,3日目だったらよかったですね。
宮﨑 関東大会準優勝チームの浦和学院(埼玉)でした。正直、当たりたい高校と当たったという感想です。甲子園に行くからには有名な常連校と試合して、お客さんにいっぱい入ってもらいたい。初日とかだと、負けたらすぐ帰らないといけないので、1回戦の試合が後ろのほう(大会5日目)だったので、いいクジひいたなとチームメイトと言っていました。
—— 宿舎とそこでの様子を教えてください
宮竹 尼宝館です。今でこそビジネスホテルなどの、シングルが主流だと思うのですが、尼宝館は民宿のような感じで、3人から5人部屋、大部屋のところで7人から8人。旅館の方が心が温まるおもてなしをしてくれまして、練習終わって疲れて帰ってきたときは非常に落ち着く場所でした。
宮﨑 同じく尼宝館でした。ほんとに(甲子園に)来たんだなという実感があって、すごい楽しかったです。野球のことだけ考えてよかったので。松山商の奇跡のバックホーム世代であるとか、小さいころテレビで見ていた愛媛県代表の選手たちの名前が直筆で書かれていました。「H2(あだち充の野球漫画)」を誰かが持ってきていて、みんなで回し読みしていました。
—— 初戦は緊張しましたか
宮竹 そうですね。甲子園という大舞台、ベンチや守備位置、打席、アルプスや観客席を中から見るとすごく大きい。すり鉢状のイメージもあって経験したこともない場所でできているなと。最初は浮足立っていました。雨も降っていましたし、いつものような試合運びでなかった印象です。
宮﨑 本来であれば一番手の戸田が先発して、2番手の津島という継投でしたが、試合の二日前の練習で、2人とも「痛くて投げられない」と。特に津島は我慢強く馬力があるタイプなので、津島が言うのはこれはまずいなと。ブルペンから見てる身としては緊張感より心配事のほうに意識がありました。夕方のナイターでの試合でした。雨も降っていて芝が濡れてとても球足が速くてやりづらい試合でした。
—— アルプススタンドからの応援はどうでしたか
宮竹 超満員でした。当然クラスメイトとか普段お世話になっている人が詰めかけてくれて、すごい人で埋め尽くされていました。僕らもプレーしていて励みになりました。アルプスから校歌を演奏してくれたり、全校生徒が大雨の中カッパも被らず濡れながら応援してくれてすごく力になりました。
初戦試合前のアルプスから (1989年世代)※手振れ注意
宮﨑 もちろん超満員でした。素直に嬉しかったですね。ブルペンの横がアルプスなので恥ずかしいのもあり、あまり見ないようにしていました。すごい迫力のある応援でした。応援部が冬の間ずっと練習していたのも知ってましたし、甲子園では攻撃の間ずっと演奏したり、踊ったりできるので応援部から「連れて行ってくれてありがとう」と言ってくれて嬉しかったです。
—— 勝利の瞬間、嬉しかったですか
宮竹 劣勢の試合でしたが、9回裏にはサヨナラに繋がるタイムリーを放ち、自身もサヨナラのホームを踏みました。嬉しかったですね。
やっぱり一回は校歌を歌いたいという思いがありました。また、同じく出場していた尽誠学園と小松島西も初戦で敗退していて、四国チャンピオンとして、意地を見せることができました。
○西条7×-6県立岐阜商業
宮﨑 勝ったのは素直に嬉しかったです。個人的には、もちろん出たいと思っていましたので、複雑な気持ちも少しありましたね。試合展開はイメージ通りの試合でもありましたし、ケガもありながら完投した津島はよく頑張ったなと思いました。
〇西条4-3浦和学院
—— 2回戦は残念ながら敗退。
宮竹 相手は九州大会優勝の龍谷高校(佐賀)でした。一回の表裏でそれぞれ2点ずつ取り合い、そのまま硬直した試合が続き、延長戦となりナイターの試合となりました。野球の試合は僕のイメージとしては9回あったら3回ごとに何らかのチャンスや動きが訪れる思いがあったのですが、守備ではセカンド高砂のファインプレーもあって失点阻止したところもあったのですが、攻撃は硬直して、チャンスらしいチャンスがなかったように思います。そのまま、延長戦に入ってしまい、流れをつかみきれず敗退。それが、敗因なのかなと思います。
●西条2-3龍谷(延長12回)
宮﨑 僕たちは沖縄尚学との試合でした。津島と戸田のけがもあり不安の中で迎えた2回戦でした。細かい野球が沖縄尚学は強かったですね。打撃も力強いし、劣勢のなか試合が進んでいって、流れをつかみきれず、そのまま負けてしまった印象です。また、僕も6回からリリーフしてマウンドに立ちました。緊張して地に足がつかなかったですが、とても貴重な経験ができました。
●西条1-6沖縄尚学
—— 春の悔しさを胸に迎えた夏。しかし、野球王国愛媛。県下で打倒西条を掲げ、あと一歩のところで2世代とも延長戦で惜敗。春夏の甲子園出場は果たせませんでした。
—— 西条高校野球部で学んだことを教えてください
宮竹 協調性であったりとか、礼儀であったりとか、コミュニケーションをとる、考えて行動することを学ばせてもらいました。
宮﨑 同じく礼儀の大事さを学ばせてもらいました。
#西条で活躍する先輩として
—— 卒業後の人生とUターンしたきっかけを教えてください
宮竹 東京の大学に進学し大学でも野球を1年間行いましたが、椎間板ヘルニアの発症により、その後は休部しておりました。卒業後は一度、東京の会計事務所に就職しました。30歳のときに西条にUターンして6年ほど勤めて、その後、独立し、現在、『宮竹和之税理士事務所』を経営しています。Uターンの理由としては、長男であったこと、また実家が自営業を営んでいて、親、家族と傍にいたかったこともありますね。
宮﨑 県内の大学に進学し大学でも野球を続けました。もともと帰る気で西条を含め愛媛県内で事務所があるところを探していました。リーマンショックがあり、就職難の時代でありましたが、ハートネットワークに就職することができました。宮竹さんと一緒で長男であったのもありますね。弊社では西条市ひうち球場などで行われる夏の県大会の中継実況の担当や学校紹介のVTR作成をしています。
—— 西条での生活のよさを教えてください
宮竹 西条というところは、仕事と生活の調和、バランスが非常に良い街ではないかと思います。特に東京などに住んでいて、西条に帰ってきたら尚更感じます。瀬戸内海もあるし石鎚山もある。うちぬきのお水もおいしい。さらには子育てにおいても西条は非常に素晴らしい環境で子育てができると感じています。
宮﨑 大学生のとき毎年石鎚山に登りにいったり、趣味で釣りをしたり、西条は当たり前のように海や山などの自然があるところが良いですね。それが趣味になって、そこから「職(仕事)」になった。ほどよく遊びにいけることがありますしね。また生まれ育ったまちでもあるので、知り合いが多い場所でもありますね。
—— 高校球児にメッセージをお願いします
宮竹 当たり前のことが当たり前にできることに感謝して、練習などで今までやってきたことを精一杯出し切り、悔いのない試合をしてほしいです。そして、夢である甲子園で校歌を歌わせてもらえたら、我々の活動※に非常に力が入りますので、頑張ってもらいたいです。
※宮竹さん、宮崎さんもOB会として、後輩たちの支援をしています。
宮﨑 今も草野球(軟式)を続けていますが、「真剣勝負」って羨ましいって卒業してから思います。しんどかったこと、負けて泣いたり、苦しかったことなど、もちろんありますけど、なかなか大人になって野球で真剣勝負って少なくなります。独特な緊張感とかも楽しんでもらえたらと思います。
—— どうもありがとうございました
—— 冷静に過去を振り返りながらも熱く語っていただき、お二人の野球に対する哲学を感じました。伝統校として、時代を越えても西条高校野球部としての誇りや愛着は同じであり、この伝統はこれからも続いていき、色あせることはないでしょう。
▼関西圏の大学に通うお子様がいる保護者のみなさんへ
西条市大阪事務所では関西圏を中心に西条市出身の若者で集まり、今はオンラインを中心にみんなで楽しくイベントを行っています。是非、お子さんに「西条市大阪事務所LINE 友だち登録」を勧めてあげてください。